観測ログ #66|悪は心にあるのか、結果にあるのか?

日々のこと

まえがき(2月13日)
童謡「やぎさんゆうびん」から始まった議論は、いつの間にか「悪とは何か」という本質的な問いに辿り着いた。

白ヤギと黒ヤギは、手紙を読まずに食べ続ける。
どちらが悪いのか?

最初は「原因を作った側が悪い」「繰り返した側も悪い」という視点が出た。
しかしそこから議論は一段抽象化される。

問題はこれだ。

悪は“心”にあるのか、それとも“結果”にあるのか?


例:未遂と過失

議論を整理するために、次の例を考えた。

  • A:殺そうと思ったが殺せなかった人
  • B:殺すつもりはなかったが結果的に死なせた人

結果だけ見ればBのほうが重大だ。
しかし内面を見るとAには明確な殺意がある。

ここで立場が分かれる。

  • 結果主義:被害が大きいほうが悪い
  • 内面主義:悪意があるほうが悪い

今回の議論はここで決定的に内面主義へ傾いた。


悪と罰は別物である

罰は制度だ。
国や時代によって変わる「プロトコル」にすぎない。

しかし悪は制度とは切り離すべきだ。

よって問いは純化される。

その瞬間の心に悪があるかどうか。

時間的持続も不要。
結果も不要。
社会的評価も不要。

白か黒か。


では何が「悪」なのか?

ここで最終的に到達した定義はこうだ。

悪とは、自己矛盾である。

つまり、

  • 自分の内なる規範に反していると自覚しながら
  • それでも行為を選ぶ

その瞬間に悪がある。

逆に言えば、

正当化する際の心に少しも引っかかりがないなら、それは悪ではない。

たとえ外から見て残酷であっても、
たとえ歴史的に誤りであっても、
本人の内面に矛盾がなければ悪ではない。

それは誤りかもしれない。愚かかもしれない。
しかし“悪”ではない。


この立場の帰結

この定義を徹底すると、次のことが言える。

  • 敵意そのものは悪ではない
  • 戦争で敵兵を殺すことも文脈次第で悪ではない
  • 問題は「内面の不誠実さ」にある

悪とは他者への攻撃ではなく、
自己への裏切りである。


そして白ヤギと黒ヤギ

もし彼らが

  • 「これは悪いことだ」と思いながら食べていたなら悪
  • 何の葛藤もなく本能で食べていたなら悪ではない

結論は、外からは決められない。

悪は観測できない。
それは常に、当人の内面にしか存在しない。


議論はここで閉じる。

悪は結果ではない。
悪は制度でもない。
悪は他者の評価でもない。

悪とは、
自分で悪だと知りながら、それを選ぶ瞬間の心である。

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