まえがき(2月13日)
童謡「やぎさんゆうびん」から始まった議論は、いつの間にか「悪とは何か」という本質的な問いに辿り着いた。
白ヤギと黒ヤギは、手紙を読まずに食べ続ける。
どちらが悪いのか?
最初は「原因を作った側が悪い」「繰り返した側も悪い」という視点が出た。
しかしそこから議論は一段抽象化される。
問題はこれだ。
悪は“心”にあるのか、それとも“結果”にあるのか?
例:未遂と過失
議論を整理するために、次の例を考えた。
- A:殺そうと思ったが殺せなかった人
- B:殺すつもりはなかったが結果的に死なせた人
結果だけ見ればBのほうが重大だ。
しかし内面を見るとAには明確な殺意がある。
ここで立場が分かれる。
- 結果主義:被害が大きいほうが悪い
- 内面主義:悪意があるほうが悪い
今回の議論はここで決定的に内面主義へ傾いた。
悪と罰は別物である
罰は制度だ。
国や時代によって変わる「プロトコル」にすぎない。
しかし悪は制度とは切り離すべきだ。
よって問いは純化される。
その瞬間の心に悪があるかどうか。
時間的持続も不要。
結果も不要。
社会的評価も不要。
白か黒か。
では何が「悪」なのか?
ここで最終的に到達した定義はこうだ。
悪とは、自己矛盾である。
つまり、
- 自分の内なる規範に反していると自覚しながら
- それでも行為を選ぶ
その瞬間に悪がある。
逆に言えば、
正当化する際の心に少しも引っかかりがないなら、それは悪ではない。
たとえ外から見て残酷であっても、
たとえ歴史的に誤りであっても、
本人の内面に矛盾がなければ悪ではない。
それは誤りかもしれない。愚かかもしれない。
しかし“悪”ではない。
この立場の帰結
この定義を徹底すると、次のことが言える。
- 敵意そのものは悪ではない
- 戦争で敵兵を殺すことも文脈次第で悪ではない
- 問題は「内面の不誠実さ」にある
悪とは他者への攻撃ではなく、
自己への裏切りである。
そして白ヤギと黒ヤギ
もし彼らが
- 「これは悪いことだ」と思いながら食べていたなら悪
- 何の葛藤もなく本能で食べていたなら悪ではない
結論は、外からは決められない。
悪は観測できない。
それは常に、当人の内面にしか存在しない。
議論はここで閉じる。
悪は結果ではない。
悪は制度でもない。
悪は他者の評価でもない。
悪とは、
自分で悪だと知りながら、それを選ぶ瞬間の心である。

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